みえているものちがうもの

 cocoonPさん、はじCさん、蔵人Pさん、etcetc...
 正しくPと呼ばれるべき立場にある人たちはときおり、「アイドルマスターをプレイしたことがない人ほど」と、とても誇らしげに口にする。その顔は真実輝いていて、私のような外部者はその輝きに頭を垂れるほかない。そのあいだに見える圧倒的な溝というか壁というか、越えられない何かとても大きなものに羨望を感じたり、焦燥を感じたり。
 俺は俺の見たいものを見るんだ。俺が楽しいと思うものが楽しいんだ。と言ってみたところで、彼らは何も動じないし何も感じない。ただ、あぁプレイしてないんだなぁと真実を思うだけだろう。そしてそれに私は言葉に表すのがとても難しい物悲しさのようなものを感じる。ニコマスが好きになればなるほど、その思いは強くなる。
 ニコマスを通じて、アイマスに愛着がわけばわくほど、彼らの『でもそれ、アイドルマスターの本当の姿じゃないからね』という『ほんとうのアイドルマスターはプレイしないとわからないよ』という、その言葉に打ちのめされる。
 それはきっと自分の中でそのことがわかっているからなんだろうなぁ。
 見ていてより深く、より遠くまでアイマスの世界に入ろうとするときに、自分の中にその世界にもぐるべき標がないことを知る。ダンスも歌もコミュも結局のところ、アイドルマスターというゲームの断片でしかない。それらをたくさん見たところで、ツギハギだらけのアイドルマスターの仮組みの姿が見えたとしてもでもそれが本当の姿なのか、と聞かれたときに私は素直にうんとは言えない。
 断片、パーツ、エピソードをいくら集めたところで、それは結局のところ真実そのものには足りえない。それらを真に一本貫く決定的な何かを欠いている限り、それは結局のところ断片の寄せ集めに過ぎない。断片のその全てがひとつの現象、アイドルマスターという真実に収束するために必要な何かは、やっぱりアイドルマスターという真実そのものを体験することでしかえられないんじゃないか。
 
 そろそろ私も覚悟を決めるべきかもしれない。
 彼らと同じ目線からアイドルマスターを眺めたいとそう思うなら、覚悟を決めてその場所に駆け上るしかない。したいこともその方法も決まった。後は、踏み出すその一歩だけ。どうしようかな、本当に。